おがむ心
私達の日常生活には、おがむ心が大切です。おがむことによって、真実の生き方ができるからです。「おがむ」ということは、尊いものに心から帰順し敬意を表すことです。私たちが称える「南無阿弥陀仏」の南無とは、帰命(きみょう)という意味で、南無阿弥陀仏とは無量の寿命(じゅみょう)と無量の光明(こうみょう)を持った仏(みほとけ)なのです。おがむ心とは、その仏(みほとけ)に助(たす)け給(たま)えとすべてをまかせてすがる心であり、その心を「南無阿弥陀仏」と称名する事によって、仏(みほとけ)の願心に生かされた真実の幸せや喜びが得られるのです。 photo03
勤行(ごんぎょう(おつとめ))
仏前に灯明をあげ、美しい花を供え、清き香を焚(た)いて、誦経(じゅきょう)念仏することで、おつとめをすることです。勤行(ごんぎょう)をすることによって清められた心が、繁雑な生活の中にも常に清新(すがすがしい)な気持が流れるでしょう。忙しい忙しいといわれる今日ほど、心の静けさが必要ではないでしょうか。朝は心新たにして、仏(みほとけ)の光の中に共に生きてゆくことを願い、夕べには一日の勤めを果たした恩徳を感謝し懺悔する気持で勤行をしましょう。
合掌(がっしょう)・礼拝(らいはい)
敬(うやま)う心が身体に表れて、合掌(がっしょう)になったり、礼拝(らいはい)になったりするのです。合掌とは、両掌を合わせることで、インドやスリランカ、タイ等で用いられている礼法の中で最も特色あるものです。両掌を合わすことは、仏に帰依する心、感謝と懺悔の心が身体に現われたものです。すべてのものに対して感謝の気持ちを表すとき、またいろいろなところに迷惑をかけながら生きていることに対する反省を表すときに用います。私たちはいろいろな縁によって生かされているにもかかわらず、不平不満に思う事が多くあります。物には限りがありますが、欲望には限りがありません。誠に恥ずかしい生活を続けていて感謝する気持ちを忘れがちであります。「ありがたい」「もったいない」「申し訳ない」と常に感謝と反省をすることを忘れない生活でありたいと願います。合掌の仕方は堅実心(けんじつしん)合掌と言い、左右両手の十指と掌(たなごころ)を正しく揃えて、両肘を張らないで、胸の前にやや斜めに堅く合わせます。礼拝はおよそ三種類ありますが、普通は座ったまま、立ったままで合掌し、仏(みほとけ)を拝して頭を下げます。下げるときは頭だけを下げるのではなく上体を前に屈するのです。 photo05
念珠(ねんじゅ)
数珠(じゅず)ともいわれ、仏(みほとけ)を礼拝するときや念仏を称えるときなどに常に用いる法具です。珠の数は百八が基本ですが、その二分の一、三分の一、四分の一のものもあります。普通は二連の日課念珠を用い、合掌のときは二連の数珠を揃えて両手の親指だけにかけて、他の指にはかからないようにします。その他のときは左の手首にかけておきます。また、腕輪の数珠の場合は合掌する時でも左手の手首にかけておきます。
焼香(しょうこう)
お香をたくことによって、汚れた私達の身も心も清められ、その場所も清浄となり、真心をもって、仏(みほとけ)に供養することです。焼香するときは、香炉の前で姿勢を正し、合掌して一礼をし、右手の親指と人差し指、中指の三指で香をつまみ、つまんだまま右手を仰向けて左掌でこれを受け、恭(うやうや)しくおしいだいて香炉に薫じます。回数は一回あるいは三回などがあります。三回は、仏・法・僧の三宝に供養するとか、貧(とん(むさぼり))瞋(じん(いかり))癡(ち(ぐち))の三毒煩悩を滅する思いでするとか言われ、普通は一心を表す一回でよいでしょう。焼香が終われば、また合掌して一礼します。 photo04
経本(きょうほん)
お経の本のことです。お経とはブッタが説かれた永遠の真理(経典)や祖師方のご法語などのことです。私達が生きていく上においての道しるべとなるものですから、敬いの想いを持って大事に取り扱わなければなりません。決して粗末に扱ってはなりません。お経は音読でも訓読でも、よく読誦(どくじゅ)してその意味をいただけば、真の人生というものを教(おし)え導(みちび)いてくれるものであり、繰り返し読誦すればするほど深く教えられるものです。