法然上人のご生涯 -浄土宗を開かれるまで-
法然上人(1133-1212)は、今から八百六十余年前の長承二年四月七日、美作国久米南条稲岡荘((みまさかのくにくめのなんじょういなおかのしょう)岡山県)でお生まれになりました。父は漆間時国(うるまのときくに)という地方豪族で、治安維持を担当する押領使(おうりょうし)という役人を務めていました。母は秦氏(はたうじ)の女(むすめ)で、渡来人系の有力氏族の出身でした。信仰心の篤(あつ)いご両親は、常々神仏にお参りして世嗣(よつぎ)の授かるように祈願されていましたが、ある夜、母は、剃刀(かみそり)を呑む夢を見て懐妊され、男の子に恵まれたのです。誕生の日、どこからともなく二流れの白い幡が飛んできて漆間家の庭の椋(むく)の木の梢(こずえ)にひっかかり、美しい楽の調(しらべ)を響かせながら七日間とどまり、また、どこからともなく飛んでいくというめでたい奇瑞(きずい)があったと伝えられています。 photo07
国宝 法然上人像
(知恩院蔵)
ご両親のお喜びは大変なもので、「勢至丸(せいしまる)」と名づけて、愛情をこめて養育されました。勢至丸が九歳の頃、父の時国と不仲であった稲岡荘の預所(あずかりどころ)、明石源内武者定明(あかしのげんないむしゃさだあきら)が手勢を率いて夜襲をかけてきました。父時国は深傷(ふかで)を負い、人々の懸命の手当ての甲斐もなくお亡くなりになりました。しかし、いまわの際に愛(いと)し児を枕辺に呼んで、遺された次のお言葉が、勢至丸の人生を変える大きな転機となったのです。「われこのきずにてみまかりなんとす。ゆめゆめ敵(かたき)を恨(うら)む事なかれ。猶この報答をおもふならば、生生にあらそひたゆべからず」諄々(じゅんじゅん)と諭(さと)す臨終の父の遺言は、勢至丸の心に深い感銘を与え、出家求道の決意を固める機縁(きえん)ともなったのです。母の弟で、近くの那岐山(なぎさん)の中腹にある菩提寺(ぼだいじ)の院主を務める観覚(かんがく)という人は、比叡山や南都((なんと)奈良)で修学したことのある得業(とくごう)という学階をもつ学僧でした。姉の相談を受けた観覚は、勢至丸をひき取って仏教のてほどきをすることにしました。生来の利発さに加えて父の遺言を胸にひめた勢至丸は、仏道研鑚に目を瞠(みは)るほどの進歩をしめしました。師の観覚はこのままでは自分の力にはとてもおえないと思い、当時、日本一の修行の場であり学問研究の最高学府であった比叡山で本格的な勉強をさせる決心をしました。
別離の悲しみに暮れる母をかきくどき恩愛のきずなを断ちがたい思いにかられながら、とうとう母の承諾を得た勢至丸は天養二年(1145)春、師の観覚の親友で比叡山西塔(さいとう)北谷に住む持宝房源光(じほうぼうげんこう)の室に迎えられました。観覚が源光に宛てた紹介状には「進上 大聖文殊像 一体」とだけ書かれていました。この紹介状を見て勢至丸の非凡さを悟った源光は二ヵ年間勉学の指導をしましたが、さらに学問の深奥をきわめさせるために久安三年(1147)十五歳になった勢至丸を東塔功徳院(とうとうくどくいん)に住む学僧の誉れ高い皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)の室へ送りこみました。皇円は「去んぬる夜の夢に、満月室に入ると見る。今この法器に会ふべき前兆なりけり」と悦(よろこ)んで弟子に加え、その年十一月華髪(けはつ)を剃(そ)り法衣を着せて戒壇院で大乗戒を受けさせました。そして三年間、皇円の許(もと)で天台三大部等の典籍を学習して研鑚を積んだ勢至丸に対して、やがて比叡山第一の大学者となり、天台座主(さす)にまで出世する大器であると将来に大きな期待をかけたのです。
しかし、弟子は師匠とは別の思いをもっていました。自分の出家した目的は、高い位に就いて出世することではない。これでは当初の志と違う。場所も師もかえてもっと真剣に求道の修行をせねばならぬ。このような思いにかられた弟子は、久安六年(1150)十八歳の秋、同じ比叡山の中でも一層山深い黒谷に隠遁(いんとん)して修行する慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)の門をたたきました。叡空は勢至丸の懇志をくんで直ちに入門を許し、最初の師である源光の「源」の字と自分の名前の「空」の字をとって「源空(げんくう)」という僧名をつけ「法然房(ほうねんぼう)」という房号を与えました。論(ろん)・湿(しつ)・寒(かん)・貧(ぴん)、つまり寒気と湿気に満ちた酷(きび)しい環境と貧しさにもかかわらず、師弟の間に再三再四に亘る真剣な論議がかわされました。このような中で、法然房源空はたくましく成長していったのです。報恩蔵(ほうおんぞう)という経蔵に籠(こも)る毎日の日課で五千巻にのぼる一切経を繰り返して読破しました。しかし、書物の上だけの学習では十分な生きた学問の修得とはなりません。南都や醍醐(だいご)や御室(おむろ)には比叡山に勝るとも劣らぬ学僧が沢山いると聞いた法然は、これらの諸学匠たちとも膝を交えて教えを乞いたいと思い立ちました。二十四才の春、師の許しを得て十年ぶりに山をおり、まず嵯峨の清凉寺(せいりょうじ)に参籠(さんろう)して三国伝来生身(しょうしん)の釈迦如来の前(みまえ)にひれふして自己の苦悩をうちあけると共に求道不退転の誓願を立てて願成就の加護を祈願されたのです。七日間の参籠を終えた法然は南都へ下り、法相(ほっそう)・三論(さんろん)・華厳(けごん)、その他諸宗の碩学(せきがく)を歴訪して、自分の志に適(かな)う教え、末法の世にふさわしい修行の方法はないものかと訪ね歩きました。しかし、学匠たちは「智恵第一の法然房」とたたえるばかりではなく教えを乞いにきた若い学徒に対して逆に師の礼をとるといった具合でした。仕方なく再び黒谷へ戻った法然は、もう一度、報恩蔵に籠って仏教の根本的な見直しをしようと思い立ちました。その結果、得られた結論は次のようなものでした。「学問と言ふとも生死をはなるばかりの学問はえすまじ、聖教を見るとも生死をはなるばかりの聖教をみるべしとも覚えへじ」仏教の伝統的な学習実践体系である戒(かい)・定(じょう)・慧(え)の三学をまっとうして悟りを得るには、どうしてもつき破ることのできない壁がある。この三学の他にわが身に即応した教えはないものであろうか。この段階で自らを「愚痴・十悪の法然房」を内省して凡夫としての自己が救われる道を求める新たな模索が始まったのです。
それから二十年間、昼夜をわかたぬ必死の努力でまた再び一切経(いっさいきょう)に取り組み、特に恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)の著作である『往生要集(おうじょうようしゅう)』に注目することで「念仏」にその解決の糸口を見出しました。その説に導かれて中国唐代の善導大師(ぜんどうだいし)が口称(くしょう)念仏を重視されていたことを知り、五部九巻というほど数ある大師の著作にしぼって何回も繙(ひもと)く努力を積み重ねました。その結果、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』を注釈された善導大師の『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうのしょ)』に大きな関心をいだきました。略して『観経疏(かんぎょうしょ)』といいますが、法然が注目したのは「一心にもぱら弥陀の名号を称(とな)え、いつでもどこでもだれでもそれを怠らない時は、間違いなく浄土に迎え取られていくことができる。それはどんな愚かな弱い者でも、もれなく救ってやろうという阿弥陀仏のお慈悲に満ちた本願の力によるからである」という内容でした。法然が長い間、探し求めていた仏教とは、まさにこの凡夫往生の仏教でした。悟りを開くことのできない凡夫にとって即応した教(みおし)えであったからです。法然はこの文言によって、「心のみだれたままで、ただ阿弥陀仏の名(みな)を称(とな)えさえすれば、本願の心(みこころ)によって、必ず往生できる」という確信をもつにいたったのです。歓喜のあまり高声に念仏し「感悦髄(ずい)にとおり、落涙(らくるい)千行なりき」と伝記は綴(つづ)っています。ときまさに承安五年(1175)の春、法然四十三歳のときのことでした。浄土宗ではこの年をもって浄土開宗の年時と定めています。 photo08